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魔がさして糸瓜となりぬどうもどうも

😆俳句の旅

「魔がさして糸瓜となりぬどうもどうも」

正木ゆう子

女性ならではの繊細な感性を生かした作品でも知られる正木ゆう子だが、その俳句世界は決して一様ではなく、こうした自在なユーモアにも富んでいる。

以下、AIによる鑑賞。

この一句を読んでまず惹かれるのは、俳諧本来の可笑しみを存分に味わわせる、思い切った言葉の飛躍です。「魔がさして」と始まれば、何かよからぬことをしてしまったのかと身構えます。ところが、その先に待っているのは「糸瓜となりぬ」。人間が突然、糸瓜になってしまうという荒唐無稽な展開によって、冒頭の不穏さは一瞬にして笑いへと転じます。さらに愉快なのが、結びの「どうもどうも」です。糸瓜になったことを嘆くでも驚くでもなく、まるで道端で知人に出会ったときのような調子で挨拶している。その飄々とした態度が、句全体の可笑しさをいっそう膨らませています。細長くぶら下がる糸瓜のどこかとぼけた姿と、「どうもどうも」という力の抜けた口語の響きも絶妙です。理屈によって意味を限定するのではなく、意外な言葉の連なりそのものを楽しむところに、俳諧の自由さがあります。何が起こるかわからない人生の不可思議ささえ、深刻に抱え込まず笑い飛ばしてしまう。正木ゆう子の自在な発想と洒脱なユーモアが光る、何度口にしても可笑しみの湧いてくる一句です。

笠智衆が洗濯物を干してゐるラストシーンのやうな秋の日

🌞短歌の旅

「笠智衆が洗濯物を干してゐるラストシーンのやうな秋の日」

萩原信子

この一首では、名脇役として数々の映画に出演した笠智衆さんの存在が、実に効果的に働いている。名前を目にしただけで、静かな日本映画の一場面が浮かんでくるようだ。

以下、AIによる鑑賞。

笠智衆が秋の日差しの中で、黙々と洗濯物を干している。そんな何気ない日常の光景を「ラストシーンのやうな秋の日」と捉えたところに、この短歌ならではの深い味わいがあります。笠智衆といえば、小津安二郎監督の映画をはじめ、平凡な暮らしの中に人生の哀歓をにじませる人物を数多く演じてきた俳優です。そのため「笠智衆」という固有名詞だけで、穏やかな時間の流れや、人生の晩年を静かに見つめるような映像世界まで呼び起こされます。洗濯物を干すという日常的な所作も、透明な秋の光と澄んだ空の下では、長い物語の最後を飾る映画のワンシーンのように映ります。そこに大きな事件や劇的な別れが描かれているわけではありません。それでも、何でもない暮らしの一瞬こそが人生そのものなのだという感慨が、静かに伝わってきます。「ラストシーン」という言葉は、秋が持つ寂寥感と過ぎゆく時間の気配を重ねながら、平凡な日常を忘れがたい一場面へと変えている。読み終えたあとにも映画のエンドロールのような静かな余韻が残る、滋味豊かな一首です。

葛の花踏みしだかれて色あたらしこの山道を行きし人あり

⛰️短歌の旅

「葛の花踏みしだかれて色あたらしこの山道を行きし人あり」

釈迢空(しゃく・ちょうくう)

国文学者・民俗学者。本名は折口信夫(おりくち・しのぶ)。

はじめてこの短歌を読んだとき、誰もが通り過ぎてしまいそうな山道の一場面を捉え、「踏みしだかれて色あたらし」と詠んだ、その観察眼と言葉の力に驚かされた。

以下、AIによる鑑賞。

静かな山道を歩く作者の目に、踏みつけられた葛の花が留まります。そこには人の姿はありません。しかし、地面に散った花の様子から、少し前に誰かがこの道を通ったことが伝わってきます。「踏みしだかれて」という強い響きを持つ言葉のあとに置かれた「色あたらし」が、この歌に鮮やかな生命感を与えています。葛の赤紫の花は踏まれたことで、その色をいっそう露わにし、名も知らぬ誰かの足跡を示すしるしとなったのでしょう。作者が見ているのは、すでに立ち去った人そのものではなく、その人が自然の中に残したごく小さな痕跡です。それでも「この山道を行きし人あり」と気づいた瞬間、それまでひとりだった山の風景に、ふっと人の気配が宿ります。先を歩いた見知らぬ人と、同じ山道をたどる自分。二人は出会うことがなくても、踏まれた葛の花を介してわずかにつながっているようにも感じられます。見過ごされがちな自然の変化から人間の存在を感じ取り、孤独な山道に静かなぬくもりを見いだした、釈迢空の鋭い感性と深い余韻を味わえる一首です。

竜胆に成層圏の色やどる

⛰️俳句の旅

「竜胆に成層圏の色やどる」

川野里子

以前、登山をした際、岩の間にひっそりと咲く竜胆を見つけ、思わず足を止めたことがある。

その鮮烈な青紫は、厳しい山の中でひときわ輝き、まるで「命の色」のように感じられた。

以下、AIによる鑑賞。秋の山野に咲く小さな竜胆の青紫を、遥か上空に広がる「成層圏」の色として捉えた、雄大な発想の一句です。竜胆は岩陰や草むらにひっそりと咲く花ですが、その深く澄んだ色は、山の風景の中で思いがけないほど鮮やかに目に飛び込んできます。以前、登山をしたとき、岩の間から忽然と姿を現したような竜胆に出会い、その美しさにはっとした経験があります。その記憶を重ねると、「やどる」という言葉がいっそう印象深く感じられます。遥かな天空の青が地上へ降りてきて、一輪の竜胆の中に凝縮され、静かに息づいているかのようです。足元に咲く小さな花と、はるか彼方の成層圏。その途方もない距離を「色」によって一瞬で結びつけるところに、この俳句の鮮やかな詩的飛躍があります。厳しい山の自然の中に咲く竜胆の生命力と、果てしなく広がる天空の青。その二つが響き合うことで、地上と空が一本の青でつながっていくような、清冽でスケールの大きな美しさを感じさせる一句です。

道の駅の栗で

今夜の献立は、秋の味覚を楽しみたくて「栗ごはん」にしました。今年初めての栗🌰を道の駅で見つけたので、皮を剥くところからひとつひとつ手作業で準備。少し手間はかかりますが、炊き上がったごはんにほくほくの栗が顔をのぞかせると、それだけで秋の訪れを感じます。


もう一品は、佐賀県での仕事の際に森うなぎ屋の社長からいただいた白石レンコンを使ったきんぴら。シャキシャキとしたレンコンの食感を楽しめる、栗ごはんにもよく合う秋らしいおかずになりました。


さらに、カマスの塩焼き、糸瓜と里芋の味噌汁、キャベツとラディッシュの塩揉みを添えて、今夜はなかなか充実した和食の献立に。旬の栗やレンコン、里芋、魚などを並べてみると、食卓から季節の移ろいを感じられます。


栗の皮剥きから始めたこともあり、いつもより少し頑張った晩ごはん。手間をかけた分だけ、秋の味覚をしっかり楽しめる献立になりました。