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最上牧場さんのじゃがいも

今夜の夕食は、北海道の恵みをたっぷり使った手作りコロッケと、出汁の旨味を生かした冬瓜と海老のスープを中心にした献立です。

メインのコロッケには、北海道の最上牧場さんからいただいたジャガイモ🥔を使いました。北海道といえば、日本を代表するジャガイモの産地。せっかくいただいた食材なので、そのおいしさを存分に味わいたいと思い、家庭料理の定番であるコロッケを作ることにしました。

ジャガイモを茹でてつぶし、具材を合わせて一つひとつ形を整え、パン粉をまぶして揚げていきます。コロッケは身近な料理ですが、下ごしらえから仕上げまで、意外と手間がかかるものです。それでも、油の中できつね色に揚がっていく様子を見ると、手作りならではの楽しさを感じます。

出来上がったコロッケは、外側がサクッと香ばしく、中はジャガイモのホクホクとした食感が楽しめる仕上がりに。食卓でも好評で、素材の持つおいしさを改めて実感しました。

今回は思い切って大量に仕込み、半分は冷凍保存しました。写真のように衣をつけた状態で保存しておけば、次に食べるときにも手作りコロッケを楽しめます。少し時間に余裕のあるときにまとめて作っておくと、忙しい日の夕食づくりにも役立ちます。

もう一品は、冬瓜と海老🦐のスープです。

こちらは、炭火干し椎茸と昆布から取った出汁を使いました。干し椎茸ならではの豊かな旨味と、昆布の上品でやさしい風味を組み合わせることで、味わいに奥行きが生まれます。

冬瓜は淡白な野菜ですが、煮込むことで出汁をたっぷり吸い込み、やわらかくみずみずしい食感に変わります。そこへ海老を加えると、魚介の旨味も重なり、素材それぞれの持ち味が引き立つスープになります。

仕上げには緑鮮やかな三つ葉を添え、彩りにもひと工夫。冬瓜の透き通るような色合いと海老の淡い赤色、三つ葉の緑が重なり、見た目にも楽しめる一品になりました。

炭火干し椎茸の出汁は、香りや旨味に特徴があり、こうした野菜を中心とした料理にもよく合います。調味料を強く効かせるのではなく、素材から引き出した旨味を大切にすることで、家庭料理にも深い味わいが生まれるように思います。

付け合わせには、千切りキャベツとニンジン、トマトを添えました。揚げたてのコロッケに生野菜のさっぱりとした味わいがよく合い、温かいスープとともに、満足感のある夕食になりました。

いただいた北海道のジャガイモをおいしく食べることから始まった今夜の献立。少し手間はかかりましたが、食材の持ち味を生かしながら料理をする時間も、家庭の食卓ならではの楽しみです。

何より、作った料理をおいしいと喜んでもらえることが一番。今夜も充実した晩ごはんになりました。

あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ

☀️短歌の旅

「あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ」

小野茂樹

この短歌には、風景や人物を具体的に示す名詞がほとんど登場しない。それにもかかわらず、日本語の美しい調べと独特の言葉の連なりだけで、読む人の心に鮮やかな夏の記憶が広がっていく。その表現力には驚かされる。

以下、AIによる鑑賞。

冒頭の「あの夏の」という一節だけで、すでに手の届かない過去となった季節が、懐かしさとともに呼び起こされます。とりわけ印象的なのは、「数かぎりなき」と「たつた一つ」という、相反する言葉がひと続きになっていることです。かつて過ごした夏には、数えきれないほどの出来事があり、歓喜や寂しさ、人との出会い、そして別れなど、さまざまな思いが重なっていたのでしょう。ところが、長い時間を経て振り返ると、それら無数の記憶は互いに溶け合い、たった一つの忘れがたい印象として心に刻まれています。「表情をせよ」という強い命令形には、遠ざかってしまったあの夏を、もう一度目の前に鮮やかに現れさせたいという切実な思いが込められているようです。また、「数かぎりなき」から「たつた一つ」へと向かう言葉の運びそのものが、幾多の思い出が一つの感情へと集約される心の動きを映し出しています。青春のまばゆさを象徴する夏と、決して取り戻すことのできない時間への愛惜。小野茂樹は、具体的な情景をあえて描かず、言葉の響きと大胆な逆説によって、記憶の奥深さと人生のかけがえのなさを浮かび上がらせています。読む人それぞれの「あの夏」を呼び覚ます、余韻豊かな一首です。

魔がさして糸瓜となりぬどうもどうも

😆俳句の旅

「魔がさして糸瓜となりぬどうもどうも」

正木ゆう子

女性ならではの繊細な感性を生かした作品でも知られる正木ゆう子だが、その俳句世界は決して一様ではなく、こうした自在なユーモアにも富んでいる。

以下、AIによる鑑賞。

この一句を読んでまず惹かれるのは、俳諧本来の可笑しみを存分に味わわせる、思い切った言葉の飛躍です。「魔がさして」と始まれば、何かよからぬことをしてしまったのかと身構えます。ところが、その先に待っているのは「糸瓜となりぬ」。人間が突然、糸瓜になってしまうという荒唐無稽な展開によって、冒頭の不穏さは一瞬にして笑いへと転じます。さらに愉快なのが、結びの「どうもどうも」です。糸瓜になったことを嘆くでも驚くでもなく、まるで道端で知人に出会ったときのような調子で挨拶している。その飄々とした態度が、句全体の可笑しさをいっそう膨らませています。細長くぶら下がる糸瓜のどこかとぼけた姿と、「どうもどうも」という力の抜けた口語の響きも絶妙です。理屈によって意味を限定するのではなく、意外な言葉の連なりそのものを楽しむところに、俳諧の自由さがあります。何が起こるかわからない人生の不可思議ささえ、深刻に抱え込まず笑い飛ばしてしまう。正木ゆう子の自在な発想と洒脱なユーモアが光る、何度口にしても可笑しみの湧いてくる一句です。

笠智衆が洗濯物を干してゐるラストシーンのやうな秋の日

🌞短歌の旅

「笠智衆が洗濯物を干してゐるラストシーンのやうな秋の日」

萩原信子

この一首では、名脇役として数々の映画に出演した笠智衆さんの存在が、実に効果的に働いている。名前を目にしただけで、静かな日本映画の一場面が浮かんでくるようだ。

以下、AIによる鑑賞。

笠智衆が秋の日差しの中で、黙々と洗濯物を干している。そんな何気ない日常の光景を「ラストシーンのやうな秋の日」と捉えたところに、この短歌ならではの深い味わいがあります。笠智衆といえば、小津安二郎監督の映画をはじめ、平凡な暮らしの中に人生の哀歓をにじませる人物を数多く演じてきた俳優です。そのため「笠智衆」という固有名詞だけで、穏やかな時間の流れや、人生の晩年を静かに見つめるような映像世界まで呼び起こされます。洗濯物を干すという日常的な所作も、透明な秋の光と澄んだ空の下では、長い物語の最後を飾る映画のワンシーンのように映ります。そこに大きな事件や劇的な別れが描かれているわけではありません。それでも、何でもない暮らしの一瞬こそが人生そのものなのだという感慨が、静かに伝わってきます。「ラストシーン」という言葉は、秋が持つ寂寥感と過ぎゆく時間の気配を重ねながら、平凡な日常を忘れがたい一場面へと変えている。読み終えたあとにも映画のエンドロールのような静かな余韻が残る、滋味豊かな一首です。

葛の花踏みしだかれて色あたらしこの山道を行きし人あり

⛰️短歌の旅

「葛の花踏みしだかれて色あたらしこの山道を行きし人あり」

釈迢空(しゃく・ちょうくう)

国文学者・民俗学者。本名は折口信夫(おりくち・しのぶ)。

はじめてこの短歌を読んだとき、誰もが通り過ぎてしまいそうな山道の一場面を捉え、「踏みしだかれて色あたらし」と詠んだ、その観察眼と言葉の力に驚かされた。

以下、AIによる鑑賞。

静かな山道を歩く作者の目に、踏みつけられた葛の花が留まります。そこには人の姿はありません。しかし、地面に散った花の様子から、少し前に誰かがこの道を通ったことが伝わってきます。「踏みしだかれて」という強い響きを持つ言葉のあとに置かれた「色あたらし」が、この歌に鮮やかな生命感を与えています。葛の赤紫の花は踏まれたことで、その色をいっそう露わにし、名も知らぬ誰かの足跡を示すしるしとなったのでしょう。作者が見ているのは、すでに立ち去った人そのものではなく、その人が自然の中に残したごく小さな痕跡です。それでも「この山道を行きし人あり」と気づいた瞬間、それまでひとりだった山の風景に、ふっと人の気配が宿ります。先を歩いた見知らぬ人と、同じ山道をたどる自分。二人は出会うことがなくても、踏まれた葛の花を介してわずかにつながっているようにも感じられます。見過ごされがちな自然の変化から人間の存在を感じ取り、孤独な山道に静かなぬくもりを見いだした、釈迢空の鋭い感性と深い余韻を味わえる一首です。